明治23(1890)年2月、東西二寮の竣工を機に、
木下廣次校長は第一高等中学校の寄宿寮に自治制を与えることを提言しました。
これを受けて、赤沼金三郎をリーダーとする生徒全員の劇的な賛同によって、
きわめて短時日のうちに自治寮の規約が定められ、「四綱領」を規範とする自治の体制が整えられて、
同年3月1日より自治寮は発足したのです。
それまでの寄宿寮における厳しい軍隊的監督管理から、寮生の自治による自律的管理への、
画期的且つ大胆な移行でした。 速やかに整備された自治の体制は、行政及び司法の機能をもつ寮委員会と、
各室の代表によって構成される立法機関としての総代会が、向陵の自治運営の根幹となりました。
木下校長が、明治20年代の町の下宿における、
いわゆる書生の荒廃した生活態度は学生の徳育養成に適さず、
「放縦横肆の書生と下宿を同うし、而して行の修り徳の進まんことを望むは、木に縁りて魚を求むるが如し」と、
皆寄宿制への道を示唆したことによって、ここに明治34(1901)年の皆寄宿寮制の実施を見るに至りました。
旧制高校でも他に例を見ないこの制度に、明治30年代後半から、
個人主義を標榜する知性派が個人の自覚の重要性を論じ、
皆寄宿寮制の廃止を叫んで保守派との間に激しい校風論争を展開することになります。
その葛藤のうちに、向陵独自の談論風発の機運が高まり、向陵の伝統が次々に確固たる形を整えていったのです。
そして、大正デモクラシーの波、関東大震災、第一次大戦後の社会不安と左翼運動などの社会情勢のうつりかわりと、
その一方でのスポーツと文芸の寮生への普及とともに、三高との四部対抗戦も始り、
概して向陵にはリベラルな空気が溢れていました。
しかし、昭和10(1935)年以降、駒場の新天地の外では軍国主義の足音が高まってきました。
一高の寮内では、時局への適応とそれへの反撥の葛藤が続き、国家総動員体制下にあって、
なお実質的に自治の精神を守るべく、凡ゆる努力と苦悩が続きました。
長い苦闘の末は、昭和20(1945)年8月15日に迎えた終戦でした。
戦後の学制改革と寮生活の荒廃の中に、昭和25(1950)年3月24日、
ついに60年に及ぶ一高の自治寮の歴史は閉じられたのです。
(第一高等学校自治寮六十年史 序章 自治寮六十年の概観 に準拠)
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