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戦後の学制改革で姿を消した旧制高等学校は、 帝国大学とともに戦前の高等教育の根幹として多くの人材を世に送り出してきました。 そのなかで第一高等学校は「一高」という略称で親しまれ、 長く本郷の向ヶ岡にあったことから「向陵」(陵は大きな岡の意)とも呼ばれていました。 明治23(1890)年、その寄宿寮に生徒による自治が認められ、 33(1900)年の5寮完成とともに翌年から自治寮は皆寄宿制となりました。 これによって学校と寄宿寮とが一体となった「向陵」が実現しました。 35(1902)年の紀念祭寮歌「嗚呼玉杯に花うけて」の一節で「向ヶ岡にそそりたつ 五寮の健児意気高し」 と歌われたのは、これをうけています。 昭和10(1935)年に一高は本郷から駒場に移転しましたが、 「向陵」の名は自治寮の精神とともに駒場の地に引き継がれました。 戦後の混乱期に一高は廃校となり、すでに半世紀余が過ぎました。 しかし後身の東京大学教養学部の駒場キャンパスには、いまも「嗚呼玉杯之碑」をはじめ、 一高の名残を随所に見ることができます。 写真の時計台も一高時代からの本館で、 駒場移転後の昭和12(1937)年紀念祭寮歌「新墾」では 「暮れ残る時計臺 |
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