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歴史写真館・写真で綴る一高の歴史  明治後期
 明治27(1894)年〜明治45(1912)年

□ 第一高等学校(明治後期)

本郷通り 本郷通り

時計台の上から見おろした正門のあたりと本郷通り。市電が通っている。
本郷の生活 本郷の生活

裏門であるが一高生は出入りしない。一高の「正門主義」は有名。 門前の道を右へ下ると根津権現。
本郷の生活 本郷の生活

寮歌を吟じないで歩いているときは、思索にふけっている時である。一高生に秋思あり。
一高学帽 一高学帽

明治27年に高等学校令が公布され、高等中学校を高等学校に改称。 専門学科を本科とし、帝大進学者のために大学予科を置く。
野球部第一期黄金時代 野球部第一期黄金時代

明治29年5月23日、横浜アマチュアクラブを29対4で破り、6月5日の復仇戦も32対9で勝ち、 明治37年までに通算13戦11勝、早慶の台頭まで黄金時代を築く。
紀念祭 紀念祭

大きなイベントのひとつである紀念祭。写真は明治32年の寮生たちの余興。 古い時代の風俗が窺われておもしろい。
紀念祭飾付け 紀念祭飾付け

明治32年、の紀念祭場飾付け。東寮玄関、神武天皇尊像。
狩野亨吉校長 狩野亨吉校長

明治31年、一高校長に就任。39年まで在職。 ズバ抜けた名校長で、自分の主張は少しも曲げずに生徒から推服された。
嗚呼玉杯に花うけて 嗚呼玉杯に花うけて

明治34年「春爛漫の花の色」(矢野勘治・作詞/豊原雄太郎・作曲)、 35年には「嗚呼玉杯に花うけて」(矢野勘治・作詞/楠 正一・作曲)が発表された。 寮歌祭も重要なイベントであった。
矢野勘治 矢野勘治

「春爛漫の花の色」「嗚呼玉杯に花うけて」は一高の代表的寮歌であるのみならず、 一般に広く愛誦されている名歌である。作詞を手掛けた矢野勘治。
楠正一 楠正一

「嗚呼玉杯に花うけて」の作曲者楠正一は、一高で学ぶかたわら夜は上野の音楽学校に通っていた。 「嗚呼玉杯」の作曲によってその才能は高く評価された。他に「緑もぞ濃き」を作曲。
藤村操「華厳の感」 藤村操『巌頭の感』

明治36年、藤村操は日光華厳の滝から投身自殺し、かたわらに「巌頭の感」が残されていた。 その頃の青年たちの自我のめざめの象徴であるとともに、多くの人びとに大きな衝撃をあたえた。
『巌頭の感』
悠々たる哉天壌、遼々たる哉古今、五尺の小躯を以て此大をはからむとす。 ホレーショの哲学竟に何等のオーソリチィ―を價するものぞ。 萬有の真相は唯だ一言にして悉す。 曰く「不可解」。我この恨を懐いて煩悶終に死を決するに至る。既に巌頭に立つに及んで胸中何等の不安あるなし。 始めて知る大なる悲観は大なる楽観に一致するを。
新渡戸稲造校長 新渡戸稲造校長

明治39年、一高校長に就任。大正2年まで在職。 それまでの「一高篭城主義」に対立する「ソシアリティ」を説き新風を吹き込んだ。
弁論部の花ひらく 弁論部の花ひらく

古い伝統を誇る弁論部は、明治36〜42年頃にかけて華々しい活躍をする。 当時の弁論部委員たち。芦田均(前列右端)、鶴見祐輔(後列左から二人目)。
文芸部・芸文の花ひらく 文芸部・芸文の花ひらく

明治終わりから大正初めにかけて文芸部が花ひらく。とくに大正2年卒業生には、 芥川龍之介、久米正雄、菊池寛ら逸材が集中、のちに芸文関係で活躍する。 写真は一高時代の菊池寛(前列中央)。
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